社会科副読本「いわみざわ」
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しいこ小原舎学徳舎学雪住成文向幌向達ぷ布やや社学校が、北村では1894(明治27)年で寺子屋がひらかれ、子どもたちにゅうけいせつしゃがくとくぶんむいほろたっほろまつづちばらしゃがくほろむいかみじゅうせいひっしゃ165蛍雪学舎(図)明治のころの志文小学校明治のころの岩見沢小学校、幌科書も紙もなかったそうだよ。」「夜どうして夜だったのかな。」学校って、夜に勉強したのかな。、上子どもたちの様子 このころの子どもたちは、ノートやえん筆の代わりに、石ばんや石筆を使って勉強しました。また、男の子も女の子も着物を着て、わらじをはいて学校に通いました。 冬、あまりふぶくときは、学校にとまることもありました。地いきで学校をつくる 岩見沢の開たくが始まってすぐの1884が、自たくで子ど(明治17)年、松もたちに読み書きなどを教えたのが岩見沢の教育の始まりです。者 その後、1886(明治19)年、移(今の岩見沢小学校)たちの力で蛍(今の東小学校)がつくられまと入した。その後も、移住者の強い願いを受けなどかく地にかんて、志い教育所や分校がつくられました。 栗沢では1893(明治26)年に必夜に幌に読み書きを教えました。  「松原さんが塾をはじめたころは教調べる地いきの学校は、だれが、どのような願ねがいでつくったのでしょうか。

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